5月22日―29日チェンマイ訪問報告

 

昨年夏頃にある人の紹介でチェンマイ山岳民族を支援されている方として大阪在住林田好雄氏と知り合いになりました。お話を伺うと彼と彼のタイ人の奥様は10数年間山岳民族の暮らしを支援されて続けており、また幼い子供の里親として子供達を育てられ、また勉強がしたくても経済的に恵まれない子供達に奨学金制度を設けて支援されてきおられます。そして努力が実り今年に入って二人を日本への留学生として育てられています。彼は偶々小生の生まれた町と同じ布施で針灸整骨院と介護施設を経営さているということでなおさら親しみを感じてきました。 

そして昨年2月上旬にチェンマイへ訪問する事を話をするとぜひ今回一緒に行ってオムコイ村へ行きましょうという話になってその準備にかかりました。オムコイ村といってもそう簡単に行けるところではなくまして支援物資などを持っていくとなると乗用車ではなくピックアップ車やトラックなどを準備せねばなりません。すべて林田さんに任せっきりで当日は早朝4時半にホテルに迎えに行くというので時間から少し送れて迎えに来てくれました。みんなの集合場所へまずいくというのでまだこんなに空いているチェンマイの道路を走ったことがない薄暗い街を待ち合わせ場所につくと数台の車と数十人の人たちが集っている、警察官も2名なにやあ怪しい雰囲気、僧侶が1名加わっている、ピックアップ車やライトバンには荷物が満載、何か事件でも巻き込まれたのかなと思いきやどうやら一個団体で総勢15名で行くことになっているらしい。聞くところ道中にかっぱらいや山賊に会う危険性もあるので警察官をつけまたこういった贈呈品やドネーションには必ずタイでは僧侶が付添い人になるらしい。私は現地で日本とタイ人夫婦で経営している旅行会社のバンに他の日本人支援者と今度日本へ留学する生徒オムコイ出身の若い二人と一緒になりました。彼女達は日本語の勉強をしていたらしく簡単な会話ができて、感心したのは彼女達は自ら余り旨くない日本語で絶え間なく話しかけてきます、あれほど積極的に話しかけてくるのは珍しいですが普通ならカタコトの言葉ならば無口になるものだが、彼女は間違っても平気でしゃべってくる、だから言葉の上達も早いのだろう、日本の学生が外国語がしゃべれないのは恥ずかしがって外国人の前ではNoといえば言葉が続かないのでついYesといって聞き手に廻るが彼女達の積極的な会話には驚かされました。

チェンマイをでて2時間少々は舗装された道路をスピードを上げて走っていたが、途中で山の中に入って昼食とトイレ休憩、チェンマイから持ってきた弁当を立ち食いで食べて、お腹が空いていたので美味しかったが量が多かったので全部食べきれずにいたら、引率の中年の女性(後で聞いたら今からいく奥地のトウンティン小学校の元校長先生で、彼女が学校当初から校長として村から貧乏で学校へ行けない子供達を引っ張ってきて教育してきた人らしい)が残った食事を各地から集めている、ごみを集めているのかなと思いきや当地の子供達がこんなご馳走食べた事が余り無いのであげれば喜んで食べるという。まあやはり当地で教師をしていなければ考えられない事です。 またしばらくはしると今度は学校の運動場らしいところに着いたのでやっと着いたのかと思いきやまだまだ目的地はこれから1時間以上かかるとのこと、凸凹道で車が走れないのでライトバンはから当地のピックアップ車をレンタルして乗り換えるという。 そこでトイレをしたくなったので場所をう聞くと(ホーンナム ティーナイ カップ?、トイレはどこにありますか?)50−60M先に小屋がある、それがどうやらトイレらしい。ここのトイレは紙がないのが普通、当社私は知らなかったのでトイレにまたがって大便をしたが紙がない、目の前に亀の水と杓があるだけ、困り果てた挙句に手で肛門を拭き便が着いた指をまた勺で水を掛けて洗った、便を流す水貯めも無いので勺で水をすくい流すと流れて消えていった。少々便で臭くなった指を改めてトイレ先の水道水で洗った覚えがあった。それから私はトイレに行く時は必ず紙を持っていくことを欠かしていませんが、タイ人は紙なしで用を足すという。聞くと左手はだから不浄の手をいわれる所以だとか。。 今回は小便だったので歩き始めたが一人の警察官も一緒に歩いてきた。私が小便を用を足していると横で立っているだけで用を足さないではないか、この警察官ひょっとしたらオカマか変態かと思いきや聞いてみると貴方は日本人でVIP途中で襲われたりさらわれた利する危険があるので警備についてきているのだと。 私がトイレに人が付いて着てくれたのは幼少の頃トイレが怖くて母親が着いてきてくれたとき依頼でした。 

車を乗り換えて走ってみてなるほど乗用車が走れるみちではなく、道がえぐれていて車のそこがバンバンあたる音がするひどい道である、それでもこの道のお陰で車で奥地までいけるようになったらしい、それまでは歩いていくしかなかったらしいがそれを思うと人が入れる場所ではないと思われた。 

やっとのおもいでトウンティン小学校へようやくたどり着いたのは10時半ごろ。大勢の子供達が集っていた。聞くところによると近隣の村の子供達も日本人の支援隊がやってくるということで総勢120−30名集めたらしい。

大きな部屋で集りそこであいさつをして寄付金の贈呈や商品を一人ひとりの子供達へ渡しました。日本人がスピーチするのに二人の通訳がいります、日本人→日本語が理解するタイ人→タイ語がわかるカレン族人、生徒達はタイ語はわからずカレン語しか理解しません。手おあげている子はまだ私もらっていませんと主張しているこどもです。その後昼食の配膳で今回は米粉ヌードル(ソーメンらしきもの)に家畜肉と野菜の煮込みスープをぶっ掛けた物ですが、これほどの食事は彼らにとっては大変なご馳走とのこと。私も忙しく給仕役に徹してボランティアーしました。子供達は嬉しそうに一人ずつ並んで待っている姿は可愛かったです。

60歳以上の老人には今回毛布を差し上げました。

お菓子が少し余ったので外で見ている母親たちにあげようとまた列に並んでもらったのですが、一度もらってまた後列に並んでもらおうとする大人たちの欲深さをみて何だかその欲深さが可愛く思えました。

帰路はチェンマイへ村の中から今回我々に便乗してチェンマイへ行きたい人も増えて若い人は車の荷台にのってあの5−6時間かかる誇りまみれで強風に拭き去られる荷台に乗ってチェンマイまで乗っかった来ました。あの我慢強さは何処から来ているのか、彼らには動物や者と同じように荷台に乗るってことに対して違和感がないように思えます。